燃えぬごみの日記

ちょー不定期です。書きたいときは書きます。

あれから3年ですね。

トピック「復興」について

 

こんばんは

 

なんだか体調悪いです。

まあ毎日10時位まで仕事してあんまり寝れてないところに

花粉症で頭がぼーっとしてるって感じなんだと思うんですけど。

 

それよりも、読んでいただいている皆様ありがとうございます。

なんだか急に訪問数が増えたようでありがたいです。

重ね重ね厚く御礼を申し上げます。

 

と、まあこのようにいつもと違う雰囲気になってますが

お話に入って行きましょう。

 

 

タイトルの通り、東日本大震災の話です。

 

あの当時はいろいろありましたね。

皆さんもあっただろうと思いますし、私の体験を1から10まで記しても

首都圏に住んでいる私の経験では対してためになるものでもないです。

 

ですが、あんなことがあった。そしてどう感じた。ということは

自分の中でも日々の生活の忙しさでつい引き出しの奥に仕舞われて、

いつの間にか記憶のほんの一瞬に成り下がってしまうように感じ、

そんな自分のためにちょっとだけ記憶を記録に残そうと思い

書いておこうと思います。

 

料理についての時と違って特に道筋がはっきりとしているわけでもないし

取り留めのない内容になる気がします。

 

こんな感じで予防線を張ってから話に入るとします。

 

2011年3月11日は仕事に出ていました。 

 

地震が起きたちょうどその時、私は昼食のためとある駅内のチェーン店の

ラーメン屋さんに入りラーメンを待ってたように思います。

そこそこ大きい駅の改札の上に位置するものですから、グラグラと大きく

柔らかく揺れたと記憶しています。

そのせいで他のお客さんのラーメンの器がテーブルの縁へにじり寄り、

落ちてしまっていました。

 

当の私はというと、のんきに椅子に座ってお客さんそれぞれの行動と、

ワイヤーで吊られている駅の電灯の揺れを見ており、さほど大事とは

思っていませんでした。

高齢のおじいさんがお一人で来店されていたのですが、地震

起きてすぐに機敏にカウンターテーブルの下に隠れていたのが印象的でした。

 

だいぶ長い揺れのあと、店員さんが安全確認と料理の提供が少しばかり

遅れるということを告げて周っていたので料理が出てくるまで待っていました。

 

そこでまた感心したのですが、駅内の施設ということもあるのだと思いますが

調理にIH調理器で行われているのだということです。

私が想像するに、こういった安いが売りの飲食店、しかも中華の、というのは

ガスで調理するのだとばかり思っていました。

 

話を戻しまして、結局料理もできたので食べて店をあとにしたのですが、

その店の目の前の本屋がシャッターを半分ほどおろしていました。

隙間から見えるに、積んであった本がばらばらと落ちてしまっていたようです。

 

そこで、初めて職場も大変なことになっているのでは、と心配になりました。

全くのんきな頭です。

 

職場に戻ってみると案の定大変な状況でした。天井の一部が剥がれかけ、

おおかた片付けたようですが、いろいろとものが散らばっていました。

とりあえず今日は帰りましょうということになり自宅へ戻ったような気がします。

 

そうして、テレビで刻一刻と津波が押し寄せてくる映像を見たのです。

あれはどうして、心を大きくえぐっていくのかと思うほどの衝撃でした。

とても恐ろしく、正直直視しているのはとても耐え難かったです。

 

 

そして現在です。

ソチオリンピックで金メダルをとった羽生選手も被災者でした。

その彼が、インタビューや会見で自分が活躍することで震災を思い出して

ほしいというようなことを言っているのを何度か目にしました。

また、ニュース番組でも被災地の方々が、震災が風化してしまうことに

危機感を募らせているというようなことも特集されていました。

 

ここで考えてみます。

 

私は震災を忘れたことと思ったことはないのですが、

震災を忘れること、記憶が風化してしまうことというのは何が問題なのでしょうか。

 

とても下世話な話ですが、ひとつはお金のお問題なのかなと思いました。

それは募金や支援物資といったものでだけはなく、日本という民主主義国家で

民意で政治が動いているとします。

そうすると、みんなの記憶から薄れるということは、今すべきことの優先順位が

下降することを意味するのではないでしょうか。

そうすることによって、復興支援などがだんだんと減少し、ゆくゆくは

ゼロになってしまう。それを恐れているのではないかと。

 

でも、それだけではなんだか合点がいきませんでした。

なんとなく腑に落ちないのです。

 

そこで妻と話をしてみました。

なぜ忘れてほしくないのか。風化させてはいけないのかということについて。

 

私からの考えとしては、上記のもの+ただ忘れられることの恐怖などが

あるのだろうかと伝えてみました。

 

彼女も忘れない、風化させないということについて疑問を持っていたようです。

そして彼女の考えでは、この風化させてはならないというものの根源は怒り

なのではないかということでした。

 

私のような間接的な被害者である人間には怒りという感情はピンときません。

 

そして、彼女の説明は続きます。 

 

 悲しみはそんなに持続できないが、怒りは長く続くのかもしれない。

 そしてそれは相手がいないこと(天災)だから誰にぶつけられるわけでもなく、

 発散もできずにいる。その怒りが3年経った今でも落ち着くことなく

 忘れてはならないということにつながっていくのだろうと。

 

 

それを聞き、たしかにそうかもしれないと思いました。

でなければ、3年も気持ちが持たないように思います。

決して以前と同じようにならない環境、生活に怒りの火が消えないのだと。

 

 

悲しみは誰かに癒してもらうことができます。

怒りは癒やすものではないし誰かどうこうできるものではありません。

 

「忘れてはいけない。風化させてはいけない。」

これらの言葉の裏には怒りがあり、それを理解し対話をして行かなければいけない。

そして、この言葉が出なくなった時こそ、

ほんとうの意味での復興が完了したといえるのかもしれません。

  

そして私はこれからもあの日のことは決して忘れることがないように思います。